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2011年1月19日 (水)

四天王寺さんへ②庚申堂

018 「清水の井戸」からゆるやかな坂道を上る。すると左側に長い壁とお堂らしき建物が現れてきた。あれまぁ、これはこれは、、、「庚申堂」さんではないですか^^子供の時から耳に馴染んだあの「庚申(こうしん)街道」の出発点ではないですか~、ここやったんですか、小さいときにも来た記憶無し、多分初めてのお参りですわ~。

016 「庚申街道」は、あびこ筋の一本西側の南北の通りで両側通行、あべのから西田辺、長居のほうまで繋がっていて、古くからの「名前のある」通りでした。四天王寺のほうに「庚申さん」があって、そこへの参道やと聞かされていましたね。せやけど、近鉄とJRの大きなターミナルができたもんで、庚申街道も途中で駅中に吸収されてたわけでんな。ひょっとしたらJR駅の上の古い陸橋がそうゆうことかもしれへんなぁ・・・なかなか分からんわいな~。庚申堂由来記によれば、『今から1300年ほど前、文武天皇の御代(697~707・飛鳥時代)、わが国にはいろいろ疫病が流行り諸人が多いに悩み苦しみ、良医の薬や高僧の祈りを求めるなどさまざまなことをおこなったが何の効験もなかった。この頃、津の国四天王寺に僧都・豪範という貴い御僧があって、慈悲の心深く、広く人間の悩みを助けようと天に祈りつづけていた。そしたら天宝元年(701)庚申年の正月7日庚申の日に、年の頃16才くらいとおもわれる一人の童子が現れ、「帝釈天が、汝の人の悩みを憐れむ至誠を感じて、除災無病の方便を与えよ、との命により天から降ってきた」と告げた。豪範が、その時感得した青面金剛童子を祀ると、さしもの疫病も退散した』(大意)とあり、これが当庚申堂のはじまりであり庚申信仰のはじまりだという。お参りさせてもらい、境内を見回すとなぜか「見ざる言わざる聞かざる」の三猿の石像が一杯ありました。三猿といえば「日光東照宮」の左甚五郎の木彫だけかと思っていたら、庚申さんでお会いするとはびっくり! どうやら「あしきこと見ざる聞かざるは我が身安全、親に孝心(庚申)」という処世訓からきてるみたいですが、えらいモジリ方、なかなか面白いやおまへんか。さらに坂道を上ると、いよいよ四天王寺南大門です。追伸;あとで調べてみますと、近鉄あべの橋駅の地下通路が「庚申街道」であること、JR駅上の古い陸橋もやっぱり同じ、さらに本来の街道筋は阿倍野区役所あたりから田辺~針中野へと斜めに向かう道やったということが分かってきました。あびこ筋の西の道は地元の通称みたいですね。ま、事前の知識はなかったので、かえって面白かった^^

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